先生のひとりごと



  新しいスタッフをよろしく。   

  今年から新しいスタッフが3名加わり、合計4名となりました。心強い限りです。
若い方は動物に対する感受性も強く、
なによりやる気が旺盛です。
今後ともよろしくお願いします。


                  稚児墓山と丹生山

 先日久しぶりにMTBのツーリングに参加してきました。
山の中を分け入って、斜面を上り下りするわけですが、
技術がないのですぐに降りて歩くことが多かったです。
山の中は涼しくて、汗もすぐに引く気がして、快適でした。
倒木が多く、丸太の上を歩くのもスラックラインの練習と思えば、
面白く、軽い自転車ならではの機動性を発揮できました。

              クライミングコンペ

 先日行きつけのクライミングジムでボルダリングのコンペがありました。
3か月に一回の恒例行事となっており、適度な刺激が得られます。
少し頑張りすぎて背中が痛くなってしまいました。
長く続けるためにはほどほどが良いようです。

                      
                        
スノーシューイング

 先日氷ノ山へでスノーシューイング体験をしてきました。
毎年この時期恒例の雪中行事として加藤さんのグループにお邪魔させていただいていますが、
いつもながら体力自慢の方々に圧倒されるばかりです。
若狭スキー場のリフトで尾根近くまで登ってそこから山頂を目指すわけですが、
あいにくの吹雪で、たびたびホワイトアウトに近い状態に見舞われ、
登頂に4時間、下山に3時間程度かかり、体力不足を実感致しました。

 山頂の避難小屋には我々以外のグループは居らず、
別のスノーシューインググループは途中からショートカットで山頂は
あきらめたようでした。
手袋をしていても指先の感覚がなくなるほどの寒さをあまり経験していないので、
休憩中も震えが止まらないほどでした。
やはり風が強いと、体感温度がさらに低く感じられるのを実感しました。
前の人の踏み跡をたどって歩いていくのですが、少しでも間隔が広がると、
すぐに見えにくくなり、サングラスは曇って役に立たず、睫毛も凍って前が見えにくいのに困りました。
雪に足を取られて何度も転び、深い雪の中から足を引き上げるたびに消耗するし、
服の中に入り込んだ雪が固まって氷になっていたのは驚きでした。

 妻のお父さんにはよくお世話になりましたが、10年前に亡くなられました。
昨夜の夢の中にそのお父さんが現れて言葉をかわしたのは
昨日の雪中体験で死にそうに寒かったのが関係しているのかもしれません。

                      
しゃぼん玉
 

 だいぶ前に読んだ乃南アサの小説にしゃぼん玉という作品があったのを思い出して、
もう一度読んでみたのですが、最初に読んだ時に劣らず、深い感動を覚えました。
その内容は、簡単に言えば、ある無軌道な若者がひったくりなどの犯罪を重ねながら偶然たどり着いた
九州の限界集落で親切な村人に出会い、人生をやり直そうと考えるようになるまでを描いた物語です。

 その青年は何事にも真剣に向き合うことをせず、その場が楽しければいいとばかり、いい加減な生き方を
してきたことに何の矛盾も感じて来ず、次々と小銭稼ぎの犯罪を重ねていました。
ところが、偶然村で出会った老婆を助けたことがきっかけで、村人達の間では老婆の孫が都会から帰ってきたものと
受け取られ、以前の暮らしとの激変に戸惑いながらも村人の暖かさに触れるようになってから
徐々に人間らしい気持を取り戻すようになっていきました。
 
 人とふれあって生きるという当たり前の生活に慣れていなかった青年は村人に色々な手伝いを
頼まれるたびに嫌がりながらも人に必要とされることの喜びを知るようになりました。
若い世代が学校を卒業後に村を後にすることが多いこの村では高齢化が進み、
たまに帰ってくる若い世代が重宝されるようになっていました。

 そんな時、都会でうまくいかず帰ってきたある若い女性にこの青年は惹かれつつ、
しゃぼん玉のように自堕落で無軌道な人生を送ってきた自分には人を愛する資格などないと悩みます。
この青年は老婆の知り合いの老人と一緒に山仕事を手伝っているうちに色々と自分の悩みを聞いてもらい、
やがてこの老人を人生の師と感じるようになっていきます。
その老人にだけは自分の心を打ち明けるようになり、いつしか人生をやり直したいと考えるようになります。
そのためには今まで自分が犯した罪を償うために自首せざるを得ず、
その決意の鈍らないうちに交番に自首するまで、老人に見届けてもらいます。
6年の懲役の半ばを終えて仮出所した彼を村人たちは暖かく迎え、このとき青年は
自分が昔のようなシャボン玉ではないのだと実感するところで終わっています。

 それにつけてもこの小説で取り上げられる高齢化と限界集落の問題が、
先日の山口県で起きた連続放火殺人事件をいやでも思い起こさせます。
この犯人も都会からわけあって帰郷したころに経験したであろう村人との人間関係が、
暖かさと裏腹に煩わしさを伴っていたことが想像されます。
責任感の強い人ゆえに頼まれごとを断りきれずにやっていたものの、
やりきれなくなって距離を置こうとするとこんどは自分を除け者にする村人への憎悪が事件の背景に
あるのでしょうか、なんとかならなかったのか残念でなりません。





                       スノーシューイング

 強い寒波が訪れた週末の氷ノ山で恒例のスノーシューイングを楽しんでまいりました。
加藤さんのツアーに加えて頂いたおかげでルートが確かで、遭難の危険が少ないのが何よりです。
早朝スキー場の駐車場に集合した面々は皆思い思いの装備で冬山を楽しむ準備に余念がありません。
西洋かんじきともいわれるスノーシューも様々なメーカー、サイズがあり、私が使っているアトラスだけでなく、
MSRの製品も人気のようです。中でもとりわけ目を引いたのが、スノボのようにシューズとスノーシューが
踏み込むだけで脱着できる製品で、従来のように普通のシューズをストラップで前後から固定する方式に比べて、
格段に素早く装着できるので、頻繁にスノーシューを着脱する場合には便利でしょう。
底面積が広いほど、雪面での沈み込みが少なくて済みますが、若干動きにくく、動作が鈍くなるのもやむをえません。
底面の構造もアルミパイプの枠内に可動式の面を設置した構造のものから、プラスチックの面で底面を構成しているだけの
軽量なもの、更には和かんじきのようにわらじを大きくしただけのようなシンプルな構造のものまで、様々でした。
これらは人間の体重や雪質によって使い分けられるようです。
もし私が豪雪地帯に住んでいたらマニアックにいくつかを使い分けることになりそうです。
幸い年に数回しか出番のないスノーシューにこだわることはありませんが。

 スキーリフトを使って尾根に上り、
そこから氷ノ山の山小屋を目指してひたすら歩くこと約3時間、ようやく避難小屋にたどり着くと、
あちこちから来た登山客が大勢いることに驚きました。
山スキーを楽しむため、前には滑るけれど、後ろには下がらない特殊なスキー板で来られている方を大勢見かけました。
山小屋の内部は零下5度位で、戸を閉めていても完全には密閉されているわけではなく、常に隙間風を感じられましたが、
小屋内で携帯コンロを使う限り、自然の換気は必要なものでしょう。
登山客の方々の装備は千差万別ですが、さながら登山用具の展示会のようで、
最新の装備や工夫が見られて、面白かったです。
 
 食事が始まるとみなさんこだわりのの携行食を取り出してバーナーを使い始め、
皆の熱気と蒸気で小屋の中が白くかすむほどです。
私はカマンベールチーズとアーモンド、チョコ、スモークチキンとホット紅茶という組み合わせでしたが、
多くの方はカップラーメンとパンが多く、隊長はなんと本格的な鍋料理を用意され、私もおすそ分けを頂きました。
バーナーも人によってこだわりがあるらしく、ガソリン、ブタンガス、アルコール燃料など、多種類でしたが、
私は軽量化の為、バーナーは持たず、子供が小学校の時に使っていた水筒(魔法瓶)で済ませました。
登山の楽しみの中でも食事の占める割合は大きいので、これからも工夫していきたいものです。





           
                               
坂越の街並み

 先日、台風が接近中の休日にMTBツーリングを敢行しました。
朝から断続的に雨が降り、自転車には最も向かない天候でしたが、
かねてより計画していた坂越(赤穂と相生の間の街)をめざして国道250号線をひたすら西進すること3時間、
途中、暴風でふらふらしたり、さえぎられたりで、速度が出せず、思ったより、時間がかかりました。

 海岸沿いの道路はとても景色が良く、風さえなければ、格好のツーリングコースとなったでしょう。
相生の火力発電所が唸りを挙げてフル回転しており、原発停止の影響がここにもという感じでした。
御津の道の駅は何度も訪れていますが、中央の階段付近は猛烈な風で、扉もいつになく閉鎖されており、
観光客もまばらでした。
 
高潮の影響で海岸沿いの道路は打ち寄せる波が防波堤を超えて道路を濡らしているので、水たまりをよけて
自転車は進むしかありません。
 貴重な自然林が残された生島が坂越の対岸に浮かんでおり、立ち入り禁止の島には神社が見えていますが、
台風の影響か、漁船が島に横付けされていました。
 
江戸時代の街並みを残した坂越の町は道路も石畳で、まるで映画のロケ地のようです。
トンネルが完成するまではこのあたりの漁港は交通不便だったに違いありません。
 牡蠣で有名なしおさい市場も台風の接近でひっそりしており、シーズンに改めて訪れたいものです。

 帰りは広畑あたりで雨が強くなり、難儀しましたが、無事完走することができました。
走行距離は約130キロで、休憩を入れて7時間ぐらいのツーリングとなりました。
最近はレースに出ていないので、体力不足を痛感する一日となりました。

               父島


 帚木蓬生さんの短編小説集の中の「チチジマ」に興味深い話がありました。
舞台は太平洋戦争末期の父島で、当時軍医として派遣されていたある日本人医師が
数十年後に当時を回想するという形で物語は書かれています。
硫黄島の玉砕前後の父島では食糧難と伝染病、虱の蔓延で有効な治療薬も
食料もなく、軍医と言っても兵士の最後を看取るだけの空しい任務で見習士官として働いていた主人公が
ある日、偶然アメリカ軍飛行機の不時着を目撃することになります。
アメリカ軍は不時着した兵士を救出すべく、編隊を
繰り出して、日本軍のいる父島からその兵士を無事救出するのですが、
その一部始終を主人公はたまたま目撃していました。
当時の日本軍はすでに制空権を失っており、救出作戦に対する日本軍のさしたる抵抗もなく、
粛々と救出作戦は行われました。

 それから何十年の時は流れ、主人公は日本で内科医として平凡な日常を送っていましたが、
偶然主人公がアメリカへ医学の症例発表に赴いた際に
今はアメリカの高名な医師となっているアメリカ人が当時救出された兵士であることを知り、
二人はそこで奇跡的な再会を果たすことになります。
アメリカ人医師は自分が戦争中に日本軍がいる所に不時着し、救出されて九死に一生を得たという武勇伝が
眉唾ものであると友人にも思われていたのですが、
当時を目撃していた日本人に会い、証言を得たことによって、
作り話ではないことを皆に分かってもらえたと大喜びするのです。

 その後も二人は戦争という不幸な出会いではあったものの
互いに日本とアメリカという違いを乗り越えた友情をはぐくんでいました。
その中でアメリカ人医師は戦争末期の日本の被害をしきりに聞きたがり
主人公の家族も空襲で亡くなったことに対して、
はっきりと謝罪の言葉を述べたといいます。
それに対し主人公はすべて戦争中のことだからアメリカを憎む気持ちなどないと伝えます。
それより主人公が一番疑問に思っていたことをアメリカ人に尋ねる日がやってきました。
それはなぜ一人の兵士を救出するために空軍が編隊を組んでまで救出にやってきたのか、
よほど身分の高い、重要な人物だったのかという疑問でした。
しかしそれに対するアメリカ人医師の答えは、
アメリカ人を助けるためにアメリカの国が動くのは当然で誰も疑問にすら思わないというものでした。
主人公はもしこれが日本軍ならどうであったか、と考えた場合、
一人の兵士の命など、一顧だにされない日本の考えとの違いに愕然とさせられるのでした。
翻って今の日本、北朝鮮に何百人もの日本人が拉致されたことが明らかになっていながら、
なかなか重い腰を上げようとしない日本政府の態度は、当時の日本軍と変わることなく
国民に対する国家のあり方というものを考えさせられました。

 この日本とアメリカの国家と国民のあり方の違いはどこから来るのでしょうか。
昔から単一民族国家として存在し、日本にいる限り自動的に日本人であると考える我々、それに対し、
多民族が集まっているゆえ、唯一のよりどころはアメリカ国民であるという絆だけであり、
国家が国民を守ってくれないとすればアメリカはその存在価値を失うという危機感がそれを支えているのでしょうか。
今もって深い課題だと考えます。

              爆弾低気圧

 台風並みの強風と豪雨が春の日本列島を」襲った先日
久しぶりに屋内のクライミングに行ってきました。

 クライミングを始めてかれこれ3年近くになりますが、週1回のペースではなかなか上達しません。
それでも、行くたびに新たな発見があり、自分を見つめ直す(体重)良い機会です。
コーチとダイエット談義をするのも楽しみの一つでもあり、世代の違う方々と触れ合うのも良い刺激になります。
クライミングは筋力だけでなく、柔軟、バランス、軽量が必要とされるスポーツで
自分としては従来ひたすら脚力を使う持久系のスポーツばかりやっていたので、苦手分野への挑戦という意味もあり、
クライミングを始めた面もありました。

 もう少しで手が届きそうで届かない、でも何回かやっているうちにできるようになる過程が面白くもあり、
また悩ましいスポーツです。
他の分野のスポーツに比べ、昔からやってましたという人が少なく、
いわゆる初心者が多いのが特徴かと思います。
皆さんも始めてみられたらいかがですか。

          氷ノ山スノーシューイング

 昨年は吹雪のため行けなかった氷ノ山スノーシューイングに今年は再挑戦することができました。
週末は天気が崩れると言われてましたが、幸い、穏やかな好天に恵まれた一日でした。
午前7時ごろにスキーリフトの下をゆっくり歩いて登り始め、
やがてリフトが動き出すと、ペアリフトのスキー客に上から見下ろされながら、ひたすら尾根を目指して登って行きます。
ゲレンデの表面は固く整備されており、普通の登山靴でも十分歩ける状態でした。
スノーモービルに乗ったレスキュースタッフが勢ぞろいして危険地帯への立ち入りを制限するテープなどを
張る準備に余念がありません。万一の時は怪我人をそりで運ぶのをテレビで見たことがありますが、
頼もしい限りです。

 東尾根の登山口から登り始めてしばらくすると柔らかい雪が多くなり、スノーシューの出番です。
あいにくふかふかの新雪ではなく、シャーベット状の雪ではありましたが、
何とか歩くことはできました。傾斜が急なところは何度も足を取られ、雪に埋もれた足を毎回引き抜くのに
結構体力を消耗するので、頂上まで4時間近くかかってしまいました。
途中で雪中キャンプをしておられたグループとすれ違いましたが、ロープなどのクライミング道具を本格的に
もっておられたので興味深々でした。クライミングができるような岩壁は見当たらないので、ひょっとするとアイスクライミングでもされるのでしょうか。

 別の足跡を見ると、スキー板の跡が続いており、山スキーで登って来られる方もおられました。
樹林帯に差し掛かると樹氷というよりソフトクリームのお化けのような大きなオブジェが様々な形を見せてくれます。
登りの疲労でゆっくり景色を楽しむ余裕がなくて残念でしたが
、山上から見える広大な景色は兵庫の屋根にふさわしいものでした。
夏に登山靴で登った時より、はるかに山小屋が遠くに感じられ、やっとたどり着いたときの感動はより大きかったです。
山小屋の入り口は雪が降り積もり、人が通るだけのスペースしかありません。
小屋の中には天井まで雪や氷が付着し、部屋の真ん中あたりまで白くなっていました。
どうやらドアが完全に閉まらないらしく、ここで宿泊したらさぞかし寒いでしょう。

 下りは軽快に進み、約1時間半位で駐車場までたどり着く事が出来ました。
途中の急斜面ではスノーシューが役立たず、倒れてそのまま下ることが多く、
そりがあればと思いました。
氷ノ山の気候は侮りがたく、いきなり天候が変化したり、ホワイトアウトになると危険ですし、
張り出した雪庇を踏み抜かないよう細心の注意が必要です。
自然相手のスポーツは人間の都合を優先すると大変危険です。
休みを取れるのがこの日しかないという理由で悪天候に強行すると事故が起こりやすくなります。
無理せずに自然を楽しみたいものです。






            縄文人の知恵


 東北の津波被害によって仮設住宅の建設が急がれますが、
それらの建設に適した高台の土地には縄文時代の遺跡跡などがあり、
住宅用地として整備するには県の教育委員会の許可が必要で、
それらの認可には時間がかかる上、住宅用への転用は認められにくいとの事です。

考えてみれば、古代人も記録のない時代とはいえ、津波などの被害の恐ろしさを
経験的に知っており、便利な海辺の低地より、
津波に対してより安全な高台を住居として選んだとすると、
低地より高台に遺跡が多くみられるのもうなずけます。

遺跡の文化的価値も理解できますが
、多くの家を失った人々に安全な土地をより早く提供するという、
最重要課題があとまわしにされるようではいけません。
何のための文化財保護かを考えるべきでしょう。






メイとハニー

 

我が家の猫2匹が仲良くくつろいでいる姿をお見せいたします。

後から来たノルウェジアンが活動的で年長の日本猫が圧倒されっぱなしです。

カメラを向けると逃げ回るので、なかなか良いところが撮りにくいです。









旧山陽道

 

 江戸時代に西国大名が上京するために瀬戸内方面を東進するのに用いられた主要道に山陽道があります。

現在の山陽自動車道と区別する為に旧山陽道とよばれており、そのルートは現在の2号線、250号線と一部重なり、

また、平行しながら、瀬戸内海沿いを通っていましたが、

現在では度重なる道路整備で本来の道筋が分かりにくくなっています。

私の住む高砂にもその道の一部が現存しており、曽根駅から東へたどるルートはやがて国道2号線をまたぐ

歩道橋となり、その後は阿弥陀町魚橋と呼ばれる町の中を走り、やがて加古川バイパスの側道と姿を変えていきます。

魚橋の町内はほぼ当時のルートを残していると思われ、当時の面影を残した石碑なども道端に残されています。

これが、場所によっては道路管理上の問題でしょうか、

それらの貴重な道標がもとあったところから別の場所に移されて保管されている事があり、

どの地点にあったのかが正確に記録されていないと、その歴史的価値が半減してしまいます。

JR曽根駅の傍の歩道橋の下が自転車置き場になっており、その一角にかなり古い道標が

雑然と置かれており、本来おかれていた位置や向きも分からない現状です。

 

 兵庫から岡山に至る旧山陽道は現在の国道二号線とほぼ同じところが多く、国道二号線が

県境にさしかかる地点に船坂峠というのがあり、

先日片道約2時間半ほどかけて、自宅からここまで自転車で行ってきました。

ここにある国道二号線の船坂トンネルは交通事故の多い事でも有名です。

今回はトンネルの手前で側道から山越えの道で船坂峠に登りました。

峠の上で休憩しながら、この道を江戸時代の西国大名が参勤交代で通っていたのかと思うと

感慨深いものがありました。

 

 また、陸路以外で船を使って瀬戸内海を東進してくる西国大名は室津で上陸し、

海岸を現在の国道250号線沿いに東進し、

岩見坂を越えて北へ向かい、国道二号線に合流するルートをたどったものと思われます。

今では海岸沿いの250号線が綺麗に整備されていますが、江戸時代には海岸沿いに道がつけられない所は、

山越えをして内陸部を東進していたのでしょう。

この国道250号線のルートに関しては別の機会に自転車で訪れました。

万葉岬の近くにある室津港の古い町並みは当時の面影を残しており、

真夏の季節は観光客も少なく、閑散としていましたが、名物である牡蠣の美味しい冬には賑わいを見せる事でしょう。

 

加古川マラソン

 

 先日加古川の河川敷で行われた加古川マラソンに初参加してきました。

ずいぶん以前から行われていましたが、機会が無く、このたび、友人の誘いもあって、出場することが出来ました。

朝も早い時間で、受付時間に遅れそうになりながら会場に到着しましたが、フルマラソンの部はすでに走り始めており、

私のエントリーした40歳以上の10`コースはスタート30分前でした。

ゼッケンをクリップで取り付けることになっているのですが、

ICチップが内側に付いていて、スタート地点を通過すると、自動的にタイムが記録されるようになっていて、非常に便利です。

このチップは約4000人の選手の記録を管理するには無くてはならないアイテムといえるでしょう。

 

 スタートまでの待ち時間はジャケットなど脱いで準備している人が多く、皆さんこの寒波のなかで、さながら我慢大会のようでした。

あまりにも寒いので、私はホッカイロを持ったまま走りましたが、最後まで、手の先は冷たかったです。

加古川東岸の加古川防災センター(消防署)近くの河川敷をスタートし、北上して池尻橋のたもとを折り返し地点とする、

10`コースは思っていたより長く感じられ、後半は背中が痛くなりました。

同じような年代の人と走れる機会はあまり無く、良い気分転換になりました。

終わったあとのぜんざいが楽しみだったのですが、あまりの長蛇の列に恐れをなして、すごすご帰宅することになりました。

さて来年の参加はどうなることやら。

 

 

 

 

第8回ヒルクライム大台ケ原

 

2001年から毎年奈良で7月に行われるヒルクライム大台ケ原に参加してきました。

スタートが午前7時なので、当然受付は前日となり、一泊の予定で夕方現地に着きました。

当日の夜は前夜祭ということで、音楽や花火、夜店などがあり、村を上げての歓迎が感じられました。

はなまるマーケットの富永美樹さんがゲストで来られており、なんと翌日のレースに出場するとのこと、

私生活では、ご主人(つんくのまことさん)ともども、自転車をされているいうことで、気合十分でした。

昨年は中学校の体育館をお借りして、参加者が雑魚寝しておりましたが、ホテルや民宿は満員なので、

中学校の校庭でテント泊となりました。

幸い雨も無く、近くの国道を通る車の騒音をのぞけば、快適な一夜でした。

夜も空けきらぬ3時4時ごろから、周りのテントから色んな音が聞こえてくるので、自然に目が覚め、

6時のレース集合時間に向けて準備を始めました。

コースは去年と同じなのですが、昨年はMTBで、今年はロードで出場するので多少期待が持てました。

結果はタイムで約10分の短縮ができました。さて来年はどうなることやら。46歳から55歳の

グループのカテゴリーで出るのはあと3回ということになりますので、1年1年を大事にしたいと思います。

 

 

第二回パナソニックヒルクライムin伊吹山ドライブウェイ

 

 春とはいえまだ肌寒い4月、関が原の伊吹山で自転車レースが行われました。

私は今回が初参加でしたが、昨年より参加者が増え、約2700人の選手が集まっておられました。

年齢、性別、自転車の種別により、多くのカテゴリーに分けられてはいましたが、

会場へ入るまでの駐車場入り口には長い車列、仮設トイレ前には長蛇の列、

受付時間ともなると登録手続きデスクにも長い長い列ができ、大混雑状態で、

自分の出番を迎えるまでに余裕を持って臨んではいたのですが、なんとなく気ぜわしいエントリー前の時間でした。

 

 スタート時間が近づくと、グループごとに伊吹山ドライブウェイの入り口ゲートまで自転車で一般道を移動し、

約20人ごとの時差スタートでレースを行いました。

勿論、電子チップを自転車につけて、スタート、ゴールを管理するので、非常に公平かつ、合理的です。

コースは自動車専用有料道の伊吹山ドライブウェイなので、普段は自転車の走行が許されず、年に1回このレースの日だけ

自転車で走れるとあって、人気を呼んだのかもしれません。

距離は17キロ、最大標高は1260メートル、標高差は1075メートル、平均勾配が6,3%となっており、

ほぼ全部が登りのみのコースで、ヒルクライムにふさわしいルートと言えます。

スタートライン付近で待機していると、パーンという破裂音が響き、皆が自分の自転車のタイヤに注目し、

自分ではないことを知るとほっとした表情に戻るといった光景が何度か見られました。

レースの途中でも、パンクの為に道端でチューブ交換をする選手が見受けられました。

その他、メカトラブルや体調不良でリタイヤする人もあり、救護車が急行する場面もありました。

今回は初めてロードでエントリーしましたが、パンクもせず、無事走り終えることが出来たことを感謝しています。

 

 頂上でゴールをした後も長蛇の列、ところがその列は何の行列か分からずに並んでいると、一緒に来た友人が

チップを取り外す為のニッパーを使用するための列だと教えてくれたので、前輪をはずしてチップを取りはずすことにより、

友人が直接受け付けにチップを届けてくれたおかげで、参加賞とバナナをもらうことが出来ました。

試合前には不十分ながら減量に努めてきましたが、この日ばかりはチョコレートにパンを心ゆくまで食べることができました。

スタート前に各自一個ずつ預けた荷物をゴール後に頂上で受け取り、すぐに上着を着ましたが、

頂上は非常に寒く、風が強いので、大量に汗をかいた後の温度差が体にこたえます。

一方、頂上では部門ごとの表彰式が行われていました。

自分より年配の選手が表彰式で「20年ロードをやってきて、こんな大きな大会で賞をもらえたのは初めてです。」

と感動の面持ちで語っておられたのが印象的でした。

その後はゆっくりと集団で17キロのルートを下山するのですが、

ブレーキレバーを引きっぱなしでいると寒さでだんだんと握力が無くなってくるので、景色を見るゆとりもありません。

ディスクブレーキのマウンテンに比べて、Vブレーキのロードは下りに不向きだと言うことが分かりました。

来年も参加できるよう頑張ります。スタッフの皆さんご苦労様でした。

 

 

 

送電線

 

 風の強い3月のある日、ふと空を見上げると高さ20メートル以上の高圧送電線の上に

何か黒いものが見えました。遠くから見るとゆっくり動いているようなので、電力会社の方が点検作業でも

しておられるのかと思いながら眺めていましたが、人間にしては小さすぎる気がするので、

近づいてよく見ると、なんと、ゆっくり電線の上を歩いているのは、アライグマでした。

犬猫の指先と違って、アライグマの指先は器用に物をつかめるようになっているので、二本の電線を

しっかりつかんでまるでサーカスの綱渡りのように歩けるのでしょう。

高圧電線の鉄塔から次の鉄塔までの距離はかなり広く、途中で休憩できそうなところなど無いので、

道路のはるか上空を横切る電線の上をひたすら休み無く歩き続けていました。

風の強い日でもあり、ゆれる電線の上から振り落とされないかひやひやしながら見ていましたが、

最後までで落ちることなく、歩き続けていました。

それにしても、最初の上り始めはどの鉄塔から上がったのか不思議です。

なぜなら、鉄塔を支える太い4本の柱には途中に傘状の器具が取り付けられていて、

下から登れない構造になっているからです。もし登るとすれば、トラス構造の細い斜めの支柱を

伝っていくことしか考えられません。

細い支柱をつかんで斜めにジグザグに登っていくのはすごい集中力が必要と思われます。

そこまでして、道路の向こう側に渡る必要性があるのでしょうか。

 

歩道橋があるのに、それを使わずに道路を横切る人間もいるのに、

アライグマはなんとも律儀に電線を伝って道路を渡ろうとしていたのでしょうか。

人間や車を見下ろす空中散歩を楽しんでいたのでしょうか。

ひょっとするとアライグマにとっては高圧電線も日常の生活道路になっているのかも知れず、疑問は尽きません。

 

 

男子の本懐

 昭和57年に城山三郎さんが書かれた「男子の本懐」を読みました。

大正から、昭和初期にかけて活躍された政治家である浜口雄幸と井上準之助の物語で、

非常に古い話にもかかわらず、世相が今の日本や諸外国と似通っている点も多く、また、登場する政治家が、

鳩山、小泉など、今の政治家の名前と共通しているので、興味深く読むことが出来ました。

それもそのはず、現在も2世、3世議員の方が多く活躍されているのが、日本の政界の特徴とも言えます。

さて、「男子の本懐」で描かれている昭和初期の日本は空前の不景気に悩まされ、街には失業者があふれ、

都会で仕事を失って故郷へ帰る人々、それも電車賃がないため、徒歩で東海道を故郷目指して歩く失業者に

善意で宿や食事を提供する方の話も出てきます。

浜口内閣率いる民政党は井上蔵相とのコンビで金解禁、官吏の給与引き下げ、軍縮、省庁の統廃合

など徹底的な緊縮財政政策を推し進めようとしますが、国債などの発行をせずに国民にその痛みを強いたため、

各方面の恨みを買うことになり、二人は凶弾に倒れることとなりました。

この二人が命を賭けてやり抜こうとした政策の正しさは、その後暗殺をおそれた政治家が、

軍部の動向をうかがって日本を誤った方向へ導いたことからも明らかです。

 

 大正末期から昭和初期にかけての日本の政治がどのような過程を得て、太平洋戦争になだれ込んだのか、

なぜあんな無謀な戦争を起こす過程を誰も止められなかったのか、またその責任はどこにあるのか、

これはいまだに多くの日本人の心の奥深くに残るしこりといえるでしょう。

 勿論あの戦争にいたる道筋は複雑で、単純には説明できませんが、

非常に大まかに言うと、明治政府が欧米の政治形態をまねて作った政党政治で強引に

近代国家の仲間入りを果たし、その結果欧米列強により植民地化を免れたことは評価できます。

しかしながら、国を動かす最も重要な軍の統帥権を天皇に委ね、その力を政党政治より上に置く仕組みを

作っていたがため、重要な局面で軍の独走を許し、シビリアンコントロールが利かない状態で政治が

軍の決定を追認する機関に成り果てた後、勝算の無いあの戦争に突入したと言うことです。

この仕組みを作った大久保利通は政党政治の出発に不安があり、万一それらが道を誤ったときの保険として、

天皇、統帥権がこれらに優先する仕組みを考えたのでしょうが、逆に軍部がこれを利用し、

統帥権干犯などと主張し、天皇を担いでその権威を利用し、軍部の独走へと走らせてしまったのです。

 

 世界的な恐慌、失業、緊縮財政など、この本で描かれる世情のいくつかが今の日本とダブります。

しかしながら、今の日本と決定的に違うのは当時の井上蔵相が国債を発行せずに

自分達の減棒を行ってでも改革をやり抜こうとしていたことです。

このような政治家が今の日本におられるでしょうか。

 

菖蒲谷

 

 2009年最初のMTBレースは例によってたつの市の菖蒲谷で幕を開けました。

小雪のちらつく山道を延々と自転車で登っていくヒルクライム競技会も今年は参加者が多く、

キッズ部門が追加された影響で親子連れも多く見られました。

頂上のゴール付近に車を停め、受付を済ませると参加賞として、イトメンのチャンポンメンと森永の

チョコボールがもらえます。(一個づつ) おそらく龍野市の地場産業の協賛を受けているのでしょう。

レース開始時間までアップをしながら待機するのですが、とにかく寒いの一言、手袋をしていても

すぐに感覚が無くなってきます。普段暖かい環境に慣れているわが身の反省しきりです。

スタート時間が近づいてくると山を降りて麓のスタート地点へと向かいます。

レースには先導車と後続の回収車が付いて来ます。

スタート間際には先導車にウィンドブレーカー等の荷物を預けてスタートの準備をします。

今年はゲストでプロ級の選手が招待されており、2分遅れでスタートされました。

勿論それでもトップで約15分ぐらいでゴールを駆け抜けたようです。

ちなみに私は19分位かかってゴールしました。

しばらく休憩の後、二本目のスタートに備えます。

短時間での補給にはチョコレートが一番で、一緒にあわただしく紅茶を飲みます。

一本目に比べて二本目の方が体が温まっているせいか、疲れているにもかかわらず、

タイムが上がりました。

レースには色々な部門が設けられ、(ロード、MTB、その中にマスター、スポーツ、エキスパート、等、)

出来るだけ多くの方に賞がいきわたるようにという主催者の配慮が感じられました。

商品はグリコのCCDドリンク3本です。暑いシーズンにはこれが役に立つのでうれしいお土産になりました。

 

 

 

        島根県

先月、家族で初めて島根県へ行って来ました。

それは、浜田市にあるアクアスという水族館にいる3頭のシロイルカに会うためです。

例のソフトバンクの携帯コマーシャルで水槽の中で植戸彩のおじさん役をしているシロイルカ達です。

人気者たちのイルカに会うため、パフォーマンスの時間に合わせて出かけたのですが、

予想以上の大混雑で、シロイルカ達のいるプールへ向かう通路はすでに満員でした。

仕方なく次回のパフォーマンス時間のために並ぼうとしたのですが、

会場から出ようとする観客と入ろうとする観客が一つの通路でごったがえしており、

なかなか会場に入れず、観客の整理をするスタッフもお手上げ状態で、

ようやく1時間前に会場に入り、パフォーマンスの始まるのをじっと待ち続けました。

シロイルカは予想以上に体が大きく、アーリャ ナスチャ ケーリャの3頭が泳ぎながらボールと戯れたり

している姿を間近でみていると、イルカと言う生き物が、芸をやらされているのではなく、楽しんでいる様子が

よく分かります。とりわけ、2頭のイルカがボールをくわえて、向かい合ってパスしているような仕草が面白く、

本番の練習をしているようにも見受けられ、待っている間も退屈しませんでした。

いよいよ本番がはじまり、ダイバーの方が水槽の中でいろいろな指示を出すと、イルカ達がそれに応えて

様々なパフォーマンスをしてくれます。圧巻はなんといってもバブルリングと呼ばれる口から丸い泡を出す仕草ですが、

いつもは頭の上にある鼻の穴から大量に空気を出すことはあっても、

人間のように口から泡を吐くことは無いはずのイルカがどうやってこれを覚えたのでしょうか。

ちょうどゲップをするときのように、のどにためた空気をまとめて吐き出すように見えます。

タバコの煙をリング状に吐き出すのを良く見かけますが、これと同じような仕組みなんでしょうか。

とにかく、3頭のイルカがダイバーの合図とともに観客のほうに向かって同時にこのバブルリングを出すのには感心しました。

ここまで教え込む根気と努力には、本当に頭が下がります。

 

        大佐山ヒルクライム

  先日岡山県新見市で行われた大佐山ヒルクライムに参加して参りました。

毎年行われる大佐山フェスティバルの行事の中のひとつとして行われる自転車競技であり、参加者の多くは

地元岡山勢で占められていますが、兵庫、鳥取、広島、愛媛、香川、大阪からの参加者も見られました。

梅雨時の行事でもあり、お天気が心配されましたが、幸い雨も無く、曇りの自転車日和となりました。

スタートは大佐山の麓の一般道で、自動車や大型バイクが普通に走るので自転車には危険な道でもあります。

頂上までの6.5キロ、その間の標高差が600メートルと、かなりの傾斜があり、途中の変化がほとんど無く、

つまり途中で楽なところが全く無いコースと言えるでしょう。参加者54人のうち、ほとんど全ての参加者がロードで

、MTBはわずかに3人ほどで、女性の参加者もおられました。

前半はロードのスピードに圧倒されながら、後半、徐々に追い上げる形で、何とか完走できました。

山頂のゴール地点で他の参加者と豚汁を頂きながら、自転車談義に花を咲かせた後は長い下りを一気に下り降り、

風の湯温泉で汗を流してから帰路に着きました。自分のタイムは32分台でしたが、優勝者はなんと23分台、

鳥取県から来られた36歳の方でした。そのスピードに拍手、拍手。

私もその他大勢として、来年も参加できるよう、体調維持に努めます。

 

            輝ける碧き空の下で

 

 

 最近、北杜夫さんの「輝ける碧き空の下で」という、小説を読みました。

これは明治、大正期のブラジルに日本から移民として渡った初期の日本人の物語で、

そこには、壮絶ともいえる彼らの生活が描かれています。

当時の日本は日露戦争でロシアを破った近代国家として、国際社会にデビューしたばかりの頃で、

国民が皆、国という存在に大きな夢を抱き、一等国として世界に飛躍する意欲に燃えていました。

しかし、日露戦争による負債などもあり、国内は景気が悪かった。

そうした中、国土も狭く、資源もない日本に愛想をつかした人、あるいは仕事を求めて

海外に活躍の場を求めた人、何らかの理由で日本で居り辛くなった人達などが、

新天地を南米に求めたのです。

また、当時の国策として、国家が南米移民を奨励していた背景がそこにはありました。

当時の日本人は米があればどこでも暮らせるという気概を持っていたようですが、

南米の自然は想像以上に厳しく、人々の開拓事業をことごとく阻もうとします。

蚊によって媒介されるマラリアは抵抗力のない人々の命を奪い、時折発生するバッタの大群は

苦労して築いた畑の作物をあっという間に奪いさり、霜害は一夜にして植えたばかりの苗を枯らしてしまいます。

そうした試練にもめげず、現地の人でも嫌がるような仕事にも精を出し、今日の繁栄を築いた人々の物語です。

うっそうとした原始林を開拓して行くことが移民たちの使命とばかり、

ひたすら開墾をして耕地を増やしてこられた彼らの苦労には頭が下がる思いです。

皮肉なことに、現在地球が直面している地球温暖化を防ぐ最後の砦は南米の熱帯雨林といわれていますが、

近代重機のおかげで、森林の破壊が当時とは比べ物にならない速度で進みつつあります。

当時の知識では密林などは人間にとって何の役にも立たず、畑などに開墾しない限り、

その土地の存在価値がないというのが当時の大前提だったのでしょう。

時代が移り、熱帯雨林の存在価値見直され、注目されるようになっても、いったん動き出した歯車は止まらない。

原生林の消滅は時間の問題とも言われています。

残念ながら、自分の生活を振り返っても、日本が輸入に頼らない自給自足に戻れないことは自明です。

地球の裏側とはいっても、日本と密接なかかわりを持つ問題です。

何とか熱帯雨林を次世代に残す方法はないものかと思います。

 

              27年前のロスの銃撃事件

 

 

 27年前にロスで起きた銃撃事件の容疑者として三浦和義容疑者がサイパンで拘束されました。

自分の妻を保険金目当てで殺すことなど想像もつかないという当時において、

舞台を銃撃事件がまれな日本ではなく、アメリカに選んだという所に、彼の先見性が垣間見えますが、

ただひとつ、彼が見落としていたのがアメリカ人の執念深さではなかったでしょうか。

当時ロスで被害者が東洋人の銃撃事件など珍しくも無く、容疑者不明のまま事件が迷宮入りすると三浦容疑者は

目論んでいたのでしょうが、保険金殺人の舞台を日本ではなく、わざわざロスにしたことに、

ロス市警はいたくプライドを傷つけられたのではないでしょうか。

つまり、日本なら発覚の恐れのある保険金殺人事件も、ロスでなら、発覚しないと踏んで、

ロスを選んだと知った時のロス市警の憤り、そして日本で裁判を受けながら、無罪になるという、

経過にロス市警が満足していたはずはありません。

仮に日本で無罪になったにせよ、アメリカで事件が起きた以上、アメリカで裁くべきだと考えていた

ロス市警が、容疑者のアメリカ渡航の機会をじっと待ち伏せていたわけです。

熱しやすく冷めやすい日本人と違ってアメリカ人は執念深いことを三浦容疑者は見落としていたようです。

日本での無罪が確定したときのロス市警の公式コメントをはっきりとは覚えていませんが、

悔しさをにじませながらも、冷静を装っていたように思います。

あの日から、日本人の中ではロス事件の風化が始まる一方、ロス市警にとっての戦いは始まっていた。

そして、容疑者が油断してアメリカに渡航するチャンスをじっと待ち続けたロス市警の執念深さが

ようやく、結実したといっても良いでしょう。

 

 

          スノーシューイング

 

 兵庫県にもようやくまとまった雪が降った先日、今期初のスノーシューイングに行って来ました。

スキー場に向かう道路上には雪が少なく、見上げる山頂にはうっすらとしか白いものが見えず、

心配していましたが、スキー場に着くころにはかなりの雪が降り始め、結局その日は終日降り続きました。

ゲレンデには多くのスキー客が訪れ、リフト券販売所には長蛇の列が出来ていたので

最初はおとなしく並んでいたのですが、自分で登った方が面白いということになり、

同行の方と相談の結果、ゲレンデを歩いて頂上まで登ることにしました。

場所によって雪面の傾斜度や雪質が大きく異なり、スノーシューを使って登るには少々きつく感じられる所もありましたが、

無事、リフトの終点まで、登り切ったころにはかなりの汗をかくほどでした。

そこから尾根伝いに別の山頂をめざして歩くこと約2時間、ようやく避難小屋にたどり着きました。

一向にやまない雪も避難小屋の中では全くの別天地、全く外の音も聞こえず、すきま風もない鉄筋コンクリートの丈夫な建物でした。

雪の中で必需品と思われたサングラスも、吐く息の蒸気が氷結して曇る為、全く役に立たず、

結局、曇り空の中、サンバイザーで雪と日差しを遮るだけの裸眼状態で過ごしました。

途中の道は杉木立の間を縫うように歩く林道なのですが、一面が雪のため、時々道に迷いそうになりました。

そのため、同行して下さった方が赤いテープを目印に残してくれたおかげで、安心することが出来ました。

林道には必ずといって良いほど鹿の足跡がみられ、その後をたどって行けばほとんど林道に間違いないのですが、

たまに木々の間を抜けて違う方向へ向かう足跡もあり、鹿の足跡だけを頼りに歩くと迷いかねません。

夏であれば一面笹が生い茂る山道も雪の季節には白一色のなだらかな斜面となり、

まだ誰も足跡を残していない新雪の上をスノーシューで踏みしめていくのは、

ふかふかして、なかなか気持ちよく、他では味わえない感覚です。

普段の山歩きとはまた違った感覚を味わえる貴重な体験でした。

 

 

 

 

      平成20年を迎えて

昨年は公私共に思い出に残る出来事が多い年でした。

50歳になり、自分の健康問題にも注意をすべき年齢になったものだと再確認させられた年でもありました。

今年も、自分で出来ることをひとつづつ確実にこなしていく年にしたいものです。

              

          たけべの森

 

晩秋の岡山路をかけぬける自転車レース、たけべの森で行われた80キロロードレースに

参加してきました。

例年なら11月の今頃は山間部は特に寒く、ウィンドブレーカーが要るのですが、

今年は暖かく、風を切って走ってもそれほど寒さを感じませんでした。

橋の下を集合場所にして、約50人の参加者が続々と集まってきます。

ほとんどが岡山県ですが、兵庫県、大阪府、香川県、広島県からも参加者がありました。

自転車の種類は問わないので、ほとんど全員がロードレーサーなのですが、

例によって僕はマウンテンにこだわって参加しました。(ただ単にロードを持っていないから。)

最初の10キロはタイムトライアルで30秒ごとに、二人ずつ時差スタートとなりました。

タイムトライアルのゴール地点はなだらかな丘の上で、ほぼヒルクライムといって良いでしょう。

一緒に参加した友人は申し込みの関係で僕より後のスタートとなりました。

登りはロードと互角に勝負できるのですが、下りではロードが断然速く、あっという間に

置いていかれます。時差スタートの為、自分が全体の中でどれくらいの順位かがわかりにくいのが難点です。

タイムトライアル終了後は約70キロのツーリングですが、山間部を走る為、

アップダウンが多く、補給所の手前では低血糖で足が思うように動きません。

補給所でおやつを食べてからは、俄然元気回復し、残りのコースに向かいました。

ゴールまで残り後10`ぐらいの地点で、右向きの矢印があり、その手前には乗馬クラブこちらの表示がありました。

いっしょに走っていた人と相談し、この矢印は自転車レースのコースではなく、乗馬クラブのもの

だろうということになり、そのまままっすぐ下っていきました。

ところが、いくら走っても次の目標が見えず、どんどん下っていくと、

後から案内役のバイクが猛スピードで追いかけてこられました。

ああやっと追いついたとばかり、その方にコースの間違いを教えられました。

矢印を曲がらずに直進した選手がいると他の選手から聞いて、案内のバイクで追いかけてくれたのですが、

下りでは自転車も結構なスピードが出るので、バイクでもなかな追いつかず、

やっと教えられたときには分岐点5キロぐらい下った地点におりました。

そこからもう一度分岐点まで自転車で坂をひたすら登り、

ようやくゴールすることができました。コース間違いのおかげで走行距離は90キロとなりました。

足はピクピクするし、くしゃみは出るし、体調は今ひとつでしたが、完走の喜びはひとしおでした。

いつものようにゴール後はあったかい豚汁が用意されていました。

近くにある温泉郷で冷え切った体を温めてから帰途につきました。

 

 

                 「沈黙」

 

遠藤周作さんの書かれた作品はキリスト教に関するものが多く、沈黙という作品もそのうちのひとつです。

舞台はキリシタン禁制の江戸時代、

はるばるポルトガルからキリスト教の東洋布教に燃えて日本にやって来た若き宣教師達の物語です。

彼らは本国ポルトガルに居ながら、当時の日本で厳しいキリスト教弾圧が行われていることを知っており、

先輩の宣教師がその中にあって信仰を覆した、つまり「転んだ」ことを聞かされるが、

自分達の敬愛する宣教師が日本でいかに酷い弾圧に遭ったかを聞かされても、

その変心をどうしても信ずることが出来ず、

それを確かめるべく、幾多の苦難を乗り越えて日本への密航を企てるのです。

鎖国下の日本では、当然長崎以外の港は外国人には閉ざされていたのですが、

マカオでひたすら日本への渡航のチャンスを待ち続けた後、

数多くの隠れキリシタンが待つ長崎近辺の島へとたどり着きます。

当然彼らの来訪はヨーロッパからの宣教師を渇望していた隠れキリシタン達によって歓迎されるはずですが、

彼ら信者は表面的には仏教徒を装っており、表立った活動は一切控え、

まして宣教師をかくまっていることが幕府に知られれば命はありませんから、その行動は限りなく密やかです。

そんな中、ようやく宣教師達を保護してくれる信者たちに出会い、

ひっそりと活動している同士に紹介されながら潜伏生活を続け、日本でのささやかな布教活動を開始します。

しかし、彼らを保護してくれたはずの信者の中にも、幕府の執拗なキリシタン狩りの手は伸びており、

キチジロウと呼ばれる信者が実はお上に内通していました。

多額の報奨金欲しさに彼が密告したことにより、宣教師は捕らえられ、改心を迫る数々の拷問を受けることになります。

このキチジロウの裏切り行為をキリストとユダの関係に置き換え、

宣教師は悩みぬきますが、最後には表面的な棄教をさせられることになります。

幕府は棄教を誓った彼ら宣教師を、貴重な外国情報をもたらすものとして、殺さずに利用しようとします。

そこで生活するうち、幕府によって棄教させられ、幕府の手下として働かされている

先輩の宣教師と運命の再会を果たします。

棄教を誓わなかったために死罪になった数多くの信者や他の宣教師を見てきた彼にとって、

今こうして、生かされている自分をいかに呪い、苦しんだかがそこに描かれています。

そこに何度も描かれている信者の姿、自分達はただ神の教えを信じているだけなのになぜ罰せられるのかと問いかけ、

自由に信仰のできる世の中を渇望する彼らの熱情に打たれます。

 

 

シャワークライム体験

 

 先日、知人と鳥取県の川で沢登りを体験してきました。

話には聞いていたのですが、想像以上にハードの一言に尽きます。

両側の崖が迫っていて狭くなっている渓谷をゴルジュと呼ぶそうですが、

その渓谷を川に沿って歩いて登っていくのがシャワークライムです。

長雨のあとの晴天で、川の水量は多く、高い樹木の陰になって気温もひんやりしており、

とても夏とは思えない気候でした。

岩の上や水の中など、好きなところをジャブジャブ歩いていくのは楽しいのですが、

疲れてくると、岩で滑ったり、つまづいたりの連続でした。

所々に現れる大小様々な滝に遭遇すると、普通なら、綺麗な滝だなと感動して終わりなのですが、

なんとこの滝を越えて上流を目指すのがシャワークライムの醍醐味だそうで、

緩やかで小さな滝であれば何とか自力で登れるのですが、

ある程度以上の傾斜になると、全く登れません。

同行のベテランの方がいとも簡単に道具も使わずに登っていくのには驚かされました。

20メートルの落差はあると思われる滝に遭遇したときは、さすがに水流を遡らず、

滝の横にある土の斜面を遠回りして登り、滝の上に到達するということが何度かありました。

(これを高巻きというそうです。)

その斜面というのが、急でしかも足場が悪く、草や木の根ぐらいしかつかまるところが無く、

高さからくる恐怖感で足の動きがいっそう悪くなり、滝を迂回するのにかなりの時間を要しました。

場所によっては、同行の方のザイルなどのサポートを受けてようやく進めるような状態でした。

渓谷が深く、林道が整備されていない為、普通の人が決して近づかないと思われる場所なので、

太古の自然がそのまま残っており、巨大なブナの木や岩盤が織り成す景観には眼を見張るものがあります。

ようやく普通の林道に到達したときは、文字通り、ほっと一息という感じでした。

単なる山歩きとは全く違った新鮮な体験をした一日でした。

 

 

 

 

メディオフォンド蒜山

 

 ようやく体調も回復したので、大山の麓、蒜山高原で行われた自転車レースに参加することが出来ました。

中国自動車道から米子道の蒜山インターを降りて約30分ぐらいのところにある高原の避暑地で

行われたメディオフォンド蒜山は毎年恒例ですが、

コースは若干変更され、今年は変化にとんだアップダウンのある設定となっていました。

鏡ヶ成の駐車場を午前9時にスタートしましたが、参加者が多く、一般道を使っているので、、

危険防止のため、4組に分かれての時差スタートとなりました。

全長約55キロのコースのうち、前半の40キロは緩やかな下りが続き、

すれ違う車も少なく、さわやかな高原の風を受けながら、快適なサイクリングが楽しめました。

残り15キロの登りが始まる地点の休憩所では、本場ヨーロッパのレース仕込みの補給食が用意されていました。

そこからゴールまでが全て登りで、このヒルクライム区間のみ、タイムを計測することになりました。

高度が低い地点に来ると暑さが厳しく、背中のハイドレーションパックの1,5リットルを

ほぼ使い切る位、汗をかきました。全行程約2時間半ぐらいでしたが、

長距離のレースはここ最近全く出ていなかったので、何度か足が攣りそうになりました。

お尻の痛みも強烈で、いろんなポジションに変えて痛みをごまかしながら、ゴールにたどり着きました。

レース結果はネットで発表されることになっています。

 

広島焼き

先日、広島を訪れたとき、本場の広島焼きを食べてきました。

兵庫県の地元では広島風お好み焼きというものしか知らなかったので、

その味を求めて、実際に本場広島市中心部にある、お好み村に行ってきました。

 

広島の人は皆元気がよく、町を歩くと「じゃけん ほじゃけん」という広島弁の連続で、

デパートの売場ではバーゲンの季節ということもあり、売場のお姉さん方が、

大声で客引きの絶叫を繰り返す様は築地の魚市場のようでした。

 

広島の中心部に到着したのが10時半でほとんどの店が11時からの営業ということもあり、どこのお店も

準備中でした。あらかじめネットで調べておいたお好み村というビルの中にある

10時半開店のお店に行ってみると、なんと臨時休業だったので、

仕方なくお隣にある村長の店というところに入りました。

この界隈全体が観光客向け、あるいはお酒の好きな方向けのお店が多い印象を受けました。

 

メニューを見ると、播磨地方のお好み焼きとそう変わらない印象ですが、

とりあえず、全部焼きと村長スペシャルを注文しました。

お好み焼きの調理過程を見ていくと、広い鉄板上の4つの場所で時間差をとりつつ並行して

素材を焼いていき、最後に合体させるというもので、簡単に説明すると、

第一の場所    薄く延ばした生地にキャベツ、モヤシをうず高く盛り上げる。

           火が通って野菜のボリュームが減ってくると薄く切った豚肉を上に乗せる。

第二の場所    焼きそばを炒める。

第三の場所    イカとエビを炒める(ドーム状のフタをかぶせてじっくり蒸らす。)

第四の場所    玉子焼きを丸く延ばす。

これらをこの順番で焼いていき、最後にこれらを重ねてからソースやあおのりなどをかけます。

その後、暖めた鉄板に載せてテーブルまで運んでくれます。

大阪風お好み焼きと違うと思われる点は、

  1 生地が薄く、おそらくヤマイモなどは入っていないこと。

  2 最後にソースの上に花かつおをかけないこと。

  3 焼きそばにソースをかけないこと。

  4 第一のベースに、薄く切ったイカのフライのようなものを割ってその上に載せていること。

  5 生地の上にとろろ昆布をのせていること  等でしょうか。

 

これらが合体して出来上がるまでの時間は比較的長いのですが、

女性の方が実に手際良く、鉄板の上で焼いていく光景は芸術的とも言え、十分見て楽しめました。

(ふりかけの動作からおそらく左利きと思われました。)

さて肝心のお味の方はというと、キャベツが柔らかく、だしが利いていて実に美味しかったです。

食感はモダン焼きに似ていますが、また違った美味しさで、広島に行かれる際には皆さんもぜひお試しください。

 

 

山歩き

 

春ごろに山歩きをして以来しばらく休んでいたのですが、

ようやく再開することが出来るようになってみると、季節がすっかり夏になっているので、

暑さがこたえます。とくに尾根伝いは日差しを遮る木が少なく、この辺の山系は

あまり夏向きではないことがわかります。

 

自転車レースも全く出られなかったので、来月ぐらいから少しずつ始動していきたいです。

特に一年に1回の御嶽山のMTBレースは前々から準備していただけに、

参加できなかったことが返す返すも残念ですが、気持ちを切り替えて、

来年に向けて頑張りたいと思います。

 

 

 

読書

 

 最近はなぜか読書ばかりで運動できてません。

三浦綾子の塩狩峠、良かったですね。

明治のキリスト教信者の置かれていた立場や、心意気がよくわかります。

主人公の幼年時代の話で、物心のつく前の話ですが、

母親がキリスト教信者であることに祖母が激怒し、父親に離縁するよう命令し、

受け入れられなければ祖母が家を出ると宣言され、

板ばさみになった父親は迷った挙句、子供を残して妻を離縁して家を出す決断をします。

でもちゃんと妻の気持ちも考えて職場と実家の間に内緒で家を借りて妻を住まわせ、

通い婚の形で夫婦を続け、やがて妹も生まれます。

こうした事情を後に知った少年は母に対する恨みを持ちますが、

そうせざるを得なかった両親の辛い決断をやがて理解できるようになって行きます。

幼い自分を捨ててまで母が守り通したキリスト教というものに対して向き合うことが出来なかった少年時代の彼が

やがて神父に成長していくまでの過程がじっくりと描かれています。

信仰の持つ力を感じさせてくれる作品でした。

 

 

メディオフォンド岡山

先日岡山の雲海で行われた自転車レースに参加してきました。

雲海温泉を起点として、12キロのヒルクライムと50キロのメディオフォンドの2部門が行われ、

総勢60名位の参加があり、天気も良く、絶好の自転車日和でした。

ほとんどがロードレーサーでの参加者で、自分のようなMTBは少なかったです。

岡山県には自転車の走行に適した、交通量の少ない国道が多い気がしました。

メディオフォンドのコースは一部に自転車専用道も組み入れられ、大変走りやすいコースでした。

国道と平行して走る自転車専用道は山の脇を走るトンネルまであり、所々に古い駅の跡が残っており、

鉄道の廃線跡を利用して作られたことがわかります。

約3時間のレースでしたが、補給に気をつけていたので、足の痙攣もなく、無事完走できました。

6月に100キロの山岳レースを予定しているので、今回はその練習も兼ねて行ってきました。

 

 

若あゆランド

 

先日佐用町にある若あゆランドで行われたMTBの2時間耐久レースに参加してきました。

国道179号線を北上し、のどかな揖保川沿いを車で走ると、約1時間で到着します。

今回は一人で参加したので、主催者の方や、あちこちの大会で顔なじみになっている方と談笑していると、

やがてスタート時間がやってきました。

コースは90パーセントがオンロード、10パーセントがオフロードで、ほぼ平坦なコースとなっており、

一般道を使用する為、地元の警察の方が交通整理に4人ほど協力していただきました。

といってもほとんど交通量の無い田舎道で、時折通る車はトラクターぐらいですが。

少し暖かくなったとはいえ、まだまだ風も冷たい午前10時ちょうどにレースはスタートしました。

部門はビギナー、スポーツ、エキスパート、チームと分かれているのですが、

参加者が少ない為、(総勢30人くらい?)全部一緒のスタートとなりました。

とりわけ眼についたのが、10歳と12歳の姉妹で、

二人のチームで参加し、走っていたのが、印象的でした。

 

レース前半はお互い様子見のためか、若干遅いペースでスタートしましたが、

1時間を過ぎるころからエキスパートトップの人は本領発揮とばかりにペースアップされ、

スポーツクラスでエントリーしていた僕は到底ついていけませんでした。

前回のエンデューロで補給を忘れ、後半ガス欠に陥った苦い経験から、

今回はドリンクゼリーを持参して、飲みながら走り、2時間最後までもちこたえました。

約3キロの周回コースを2時間で何周できるかを競うものですが、僕は23周出来ました。

(エキスパートのトップはなんと24周です。)

今回の結果は、自分としてはまあまあの出来だと思います。

春になると、各地でレースが目白押しなので、

獣医関係の行事の合間に出来るだけ参加していこうと思います。

 

 

 

鹿

先日大河内町と峰山高原の付近をMTBでツーリングしてきました。

といっても道なき道を自転車を押したり担いだりしながら、

雪道をひたすら6時間あまり行進するツアーでした。

初めて参加された方には少々辛いようで、

ご本人いわく、「まるで何かの罰ゲームみたい」でした。

今年は記録的な暖冬で、雪の残っている場所がすくなく、

ほとんどの場所が地面が露出して、雪中ツーリングを期待したむきには

残念なコンディションでした。

山中でいきなり鹿の親子連れが走り去るのを目撃しましたし、

あちこちに鹿の糞がみられ、休憩で腰をおろした付近でも、誰かが、「何か臭う」

といい始めると、そそくさとその場を退散することもありました。

近年異常に鹿が増えすぎ、食害が見られるという報道を耳にしますが、

実際山の中で鹿に遭遇する機会が増えたように実感します。

よく言われるように林業関係者の後継者不足で、下枝打ちなど山の手入れが

行き届かなくなっていることと、関係があるのでしょうか。

足跡以外は何も残さないを鉄則に山歩きをしていますが、自然の変化を肌で感じました。

 

2007年に思うこと

 

昨年は色々なことがありましたが、色んな人のおかげで生かされていることを実感した一年でした。

ものごとがうまくゆかないときはどうしても誰かのせいにしがちですが、後から考えると、

それらの試練にも必然があり、人生に無駄なことなど無いと気づかされます。

これからも、感謝の気持ちを忘れず、社会の為に自身を向上していきたいです。

        

         

 

                    問題と神秘

             

司馬遼太郎さんの対談集の中でおもしろいくだりがありました。

それは、人が出会う様々な事象について、それをどう捉えるかという、

哲学的な話の中で対談者の方が述べておられる話の中にありました。

世の中の出来事をすべて答えのある問題と考えると、

それだけでは必ず行き詰ることがある。

それは神秘の領域であって、いくら考えても答えや解決法があるわけではないというものです。

たとえば人の出会いや生死という根源的な問題には、答えなどない。

勿論、病気を問題と捉えて、その解決に至る治療に努力するのは勿論必要だが、

やがて訪れる死は避けられるものではなく、最後の段階においては

神秘の領域に属するというものです。

つまり、あるところまでは問題と考えて答えに向かって立ち向かい、

それを超えたところでは神秘の領域と認めて、謙虚に受け入れる姿勢が

現代人には必要だというような内容だったと思います。

司馬遼太郎さんの著作はかなり読んだつもりですが、

読むたびに新しい発見があり、その知見の豊富さに驚かされます。

まさに知の巨人とも言うべき彼の脳はどういう構造になっていたのか、

それこそが、わたしにとって神秘です。

 

            ベルピールの丘

 

例によってヒルクライムの自転車レース、今回は佐用町のベルピールの丘にチャレンジしてきました。

日名倉山の中腹にあるベルピールの丘という結婚式場をめざし、

麓から約15キロの林道をひたすら登り続けます。

11月ともなると、山の頂上は冷えます。

朝のうちは雪交じりの雨が降り、風も強烈ですが、

お昼前になってようやく日が当たり始め、手足にぬくもりが戻ってきました。

ゴール手前では両足が痙攣しかけるし、おまけに鼻水も出るわで、長い51分でした。

こうしてシリーズで出場していると、知り合いも増え、

自転車の話で盛り上がることも多くなりました。

 

試合後の温泉は愛の村にある豪華な施設内の温泉を利用しました。

宮本武蔵以外、これといって観光資源の無い地方と思っていましたが、

観光バスがぞくぞく到着するのには驚きました。

売店で買ったつきたてのおはぎが柔らかくて最高でした。

お漬物も美味しく、またこれが安い。来年も楽しみです。

 

           ツールド奥津山岳コース

 

先日奥津温泉の近くの津黒高原で行われた自転車レースに参加してきました。

晩秋の山岳コースはハイカーの方も多く、温泉へ向かう自動車も目立ちました。

一般道を使った約60キロのコースはアップダウンが多く、

根気の要るレースでしたが、紅葉の始まった津黒高原は美しく、

観光だけであればさぞかし楽しいコースかと思われました。

途中1ヶ所で給水とどら焼きのサービスがあり、

一息ついてから、再び急勾配の山道に挑戦が始まります。

ほとんどの自転車がロードレーサーで、下り勾配になると、

よけいにMTBとの速度差が明瞭になりました。

暗いトンネルに差し掛かると、ライトの無い自転車は

車から確認しにくいと思われ、ひたすら無事故を祈って

一列走行を心がけました。

約3時間で速いグループは帰還したのですが、

5時間たっても帰ってこない自転車があり、

どうやら途中で道を間違えたらしく、最後の1台が帰るまで

表彰式を遅らせて全員で待っていました。

主催者の心遣いが感じられる良い大会でした。

         

 

 

               松山千春

 

   先日wowowで松山千春の30周年記念コンサートを放送していました。

コンサートにもいろいろありますが、その中で歌、トーク、踊り、演出のうち、

どの部分に重きが置くかが、歌手によって大きく異なります。

松山千春のコンサートの場合、彼独特のトークを期待してのファンも多いことでしょう。

でもやはり、歌手の命である歌そのものを大事にしている彼らしく、

演出や振り付けを控えめにしておられました。

そして、彼の持ち味である伸びのある高音を十分聴かせるべく、

息が上がらないよう、跳んだり跳ねたりの演出を出来るだけ抑えているのが窺えました。

 

トークの内容で言えば、織田信長の小姓が明智光秀の変調に気づいて

これを用心するよう進言したにもかかわらず、それを笑い飛ばしたり、

信長が見た夢の中でネズミが馬を食べてしまうくだりを

午年の信長が鼠年の光秀に討たれる前兆ではないかとして

忠告されたにもかかわらず、これを無視し、

結局光秀に打たれてしまう故事などについても語っておられました。

 

また、人間が相手を思う気持ちと、かたや相手に思われる気持ちを

やじろべえの両端に例え、それらが釣り合うということは

まさに刹那といえるほど短いにもかかわらず、

それを求める人間というもののいとおしさについて語っておられました。

とくに彼の「初恋」という曲にそれが現れている気がしました。

 

最後に夢ということについて、千春自身がよく「あなたの夢は何ですか?」

と聞かれることがあるそうですが、

それについては当たり前すぎて、答える気がしないそうで、

その理由は、夢といえばとこうして大勢の人の前で自分の好きな歌を歌うことに

決まっているじゃないかということを強く語っておられました。

私自身を振り返ってみると、動物のために何かできる仕事をしたいと言う夢をもって

スタートした大学時代を思い出して、改めて夢という原点を思い起こした夜でした。

 

 

 

       

          洞窟探検

ここは県内のとある山中の公園駐車場です。

知り合いのお誘いで夜中に洞窟を探検することになり、

集合場所の公園駐車場で待つこと暫し、三々五々メンバーが車で集まってきます。

辺りは漆黒の闇に包まれ、自動車のライトを消すと、全く何も見えません。

公園と言っても街灯ひとつ無いんです。

今時こんなところがあるんですね。

メンバー6人が各自思い思いの格好でスタンバイ。

頭にはヘルメットとヘッドランプ、肘、膝にはプロテクター、

MTBには強力ライトといういでたちで勢ぞろいしています。

山中をMTBで進むことやく一時間、

途中劇坂や茂みをかき分けた所にその洞窟はありました。

入り口は直径3メートルぐらいでコンクリートで出来ており、

さらにその奥は岩を掘り進んだような直線になっています。

地面には茶褐色の水が流れ、進むにつれて、足元がすぐ泥だらけになってしまいます。

途中まで来たところで、隊員のひとりが「有毒ガスが有るかもしれないのでこれ以上進むのは危険ですよ。

さっきまでいた生き物が見えないのはおかしい。」と言いだしたので、皆おじけづいています。

でも、隊長は構わず、平然と進んで行きます。

地面のほとんどが泥で覆われ、かろうじて両側の岩伝いに進んでいくのはクライミングの技術が

あるからで、隊長が横の岩に張り付いて進んでいくのを眺めている私でした。

と、前方からこうもりが乱舞しているのが見えてきたので、

酸欠や有毒ガスの危険は無く、ようやく一安心。

洞窟の奥は行き止まりになっており、木材で塞がれていました。

その向こうには何があるか知りたいところですが、時間の関係上引き返してきました。

帰りの山道もアップダウンが多く、暗闇に隠れた岩で膝を強打したり、難儀しながら、

駐車場までたどりつきました。

翌日にレース(自転車)の予定があるので、すばやく着替えて一番に駐車場を後にしたのですが、

真っ暗で道を間違い、また元の駐車場に戻ってしまいました。

方向音痴の面目躍如といったところです。

                    

            

8月の思い出

 

今年の夏は非常に厳しかった。暑さもですが、体力的に。

というのは、MTBのレースに月3回も出場したのです。

たつの市で行われた菖蒲谷のクロスカントリーは参加者も多く、コースもよく考えられていて、

日本でも有名なライダーも多く参加されていました。

決められたコースを2時間以内に何週できるかを競うもので、シングルトラックと呼ばれる狭い林道を

走るのですが、後ろから来る速いライダーが追い抜こうと近づいてくると、

ついむきになってスピードを上げたりして、藪に突っ込んでしまい、

ハンドルで胸を強打、肋骨を痛めてしまいました。

 

年甲斐もなくレースなんかに出るからだと反省し、気分を変えて、

翌週は鉢伏山のヒルクライムレースに出場しました。

これは冬場のスキーで有名な氷ノ山や鉢伏山の麓をスタートし、

鉢伏山の頂上にゴールするオンロードのレースです。

ほとんどの参加者がロードレーサーと呼ばれる細いタイヤの自転車で、

MTBがその中にいると、みにくいアヒルの子の様な状態です。

鉢伏山の頂上は夏とは思えないほど涼しく、

高校生達がクラブの合宿などで沢山滞在していたのも分かります。

途中の林道は道路の両脇から木々が覆ってさながら緑のトンネルのようで、

レースでなければ楽しいツーリングコースでしょう。

来月は蒜山のヒルクライムレースが待っているので、楽しみです。

 

 

            鬼の城ヒルクライムレース

 

 夏の真っ盛りに、岡山の総社にある鬼の城公園で行われたヒルクライムレースに参加してきました。

砂川公園というところをスタート地点とし、

鬼の城という山頂をゴールにして行うヒルクライム自転車レースで、

今回はロードとマウンテンの部門分けをせずに、全部同時のスタートでした。

スタート直前に一台がパンクしたため、

そのチューブ交換のために30分ほどスタートが遅れました。

道路が細いので、スタートでの事故防止のため、ローリングスタートという方式がとられました。

前半は比較的緩やかな上り坂で、中盤がかなり勾配のきつい坂が続きます。

でも、いかんせん、マウンテンではどうしても勝負どころでロードに抜かれてしまいます。

でも最後の坂を登り切った達成感は格別で、ゴールした後のカキ氷と桃の味が忘れられません。

こうして、いつも食べ物の話で終わります。

 

 

 

 

           大台ケ原ヒルクライムsince2001

 

先日、上北山村で行われた自転車レースに参加してきました。

これは、奈良県と三重県の県境にある大台ケ原という所で毎年行われる、山の麓をスタート地点とし、

頂上をゴールとした、オンロードのヒルクライムレースです。

車種はロードレーサーとMTBで、同じコースを走り、年代や性別、車種別に順位を争うものです。

人口の少ない上北山村の村おこしのイベントとして始まったこの大会も

第六回目となると、全国から参加者も多く、大会の運営面でも、工夫が凝らされており、

まずまずの成功を収めているといって良いでしょう。

私自身は初参加で、いろいろな面で驚きの連続で、苦しいながらも、楽しい二日間でした。

参加者は500人弱で、関係者を含めると、かなりの人数がこの小さな村に集まる関係上、

宿泊施設の収容力には当然限界があり、宿にあぶれた人のために中学校の体育館が開放されました。

体育館の広いフロアー全体に貸し布団が置かれた様は、さながら災害時の避難所です。

全く知らない同士が隣り合わせに布団を並べて寝るという経験は余りなく、

自転車談義に花を咲かせた楽しい夜でした。

もともと雨の多い紀伊半島ですが、この時期は特に湿度も高く、

レース当日も小雨が降ったりやんだりという、霧の多い一日でした。

レースは部門別に時間差をつけてスタートするのですが、

私の参加したMTB部門は二番目にスタートした関係上、

後発のロード部門に追い上げられ、抜かれ続けるという展開でした。

特に終盤の比較的勾配の緩やかなコースではロードレーサーの加速はものすごく、

立て続けに追い抜かれて順位を下げてしまいました。

なんとかゴールの頂上にたどり着いた時の感動は言葉に言い表せないほどでした。

頂上では上北山村のスタッフの方にジュースやにゅうめんを振舞っていただき、

また、コース途中の沿道では村の方たちが道路に出て応援もしてくれたりで、

村の方たちの暖かさにも感動でした。

レースの結果は、表彰台に届かず、不本意なものでしたが、

今の実力ではまあこんなもんでしょう。

無事に帰ってこれたのも、行き帰りの運転を快く引き受けてくれた友人と

準備を手伝ってくれた家族のおかげと感謝しております。

 

 

                      藤田嗣治

先日京都の国立近代美術館で行われた藤田嗣治生誕120年記念の展覧会を観に行ってきました。
 この方は日本の美術界ではそれほど評価されず、むしろ外国のほうでレオナルドフジタとして、有名な画家です。
勿論私自身名前も知りませんでした。

画風としては、独特の白を使った女性画や猫の絵が有名ですが、
戦争画にまつわる暗い因縁によってその運命を翻弄された不幸な画家とも言えそうです。

彼にとって画家としての修行時代を送っただけでなく、最終的に帰化し、生涯を終える
ことになるパリの町を描いた作品も多く、黒の線描を用いて日本画と洋画の要素を
混在させた彼独自の技法はこの町で最も輝いていたといえます。

第一次世界大戦の前に渡欧し、戦争によってその活動は頓挫して帰国するものの、
再びヨーロッパで精力的に活動したのですが、
やがて第二次世界大戦が始まると、日本に帰国し、
軍部の要請で戦争画を描くようになりました。
彼のこれまでの作風と全く違う戦争画によって彼は新たな境地を見出すのですが、
そのことによって、戦後、彼の運命は大きく狂わされることになります。
軍部の命令とはいえ、戦争遂行のために国民を惑わしたという、戦争責任を
問う意見が美術界を中心に起こり、
彼はその活動の舞台を欧米に移さざるを得なくなります。
本来画家が戦争をモチーフにして絵を描いたからといって、
その芸術性が損なわれることはなく、
まして画家に戦争責任を問うなどという考え自体が欧米には存在しなかったにも
かかわらず、日本人の中にそういう意見が起きた事じたいが悲劇といえます。

同じ画家の作品であっても、
その描かれた時期によって作風が異なることはよくありますが、
藤田嗣治ほど、その時代背景を反映した作風の変遷を見せる画家も珍しいでしょう。
彼は人一倍日本を愛し、美術界の後輩や日本人を愛したにもかかわらず、
日本人は彼を評価せず、冷遇してきたのです。
そうしたわだかまりが日本における彼の正当な評価を妨げてきたのかも知れません。

今の平和な時代にあって、彼の作品を虚心に見た場合、
彼の技法とタッチは間違いなく、一級の輝きを持っています。
今この時期に藤田嗣治が正当に再評価されるべく、
生誕120周年記念作品展が行われるのは、非常に意義深いことです。